五感であらゆるものを知覚する。
そんな当たり前のようなことに、私はずっと苦手意識を抱いていた。
自分の感覚は鈍い―――そう感じていた私が、
コーヒーを通して “美しさ” に触れた、ある瞬間のこと。
その一杯に、何を込めるか。
日々コーヒーを淹れる中で、私はいつも何かと向き合っている。
それは、自分の中でまだ言葉にならない“感覚”たち。
コーヒー豆の声を聴きながら、自分の内側にもそっと耳を傾けている。
「美しい一杯」とは何か?
今の私には、まだその明確な答えはない。
もしかしたら、一生かかっても見つからないのかもしれない。
私にとってそれは、繊細で、どこか神秘的な世界のことだ。
それでも、今日もまた私は一杯のコーヒーを淹れる。
一杯のコーヒーが、ふと心に余白をくれる瞬間がある。
それは、ただ味が良いというだけではない。
漂う香り、触れる温度、舌を伝う質感、抽出時の所作……
五感すべてに語りかけてくるような、そんな存在。
それが、私にとっての「美しい一杯」かもしれない。
まだ自信はない。
これまで「完璧だった」と思えた一杯は、正直ひとつもない。
どこかにいつも、小さなネガティブがつきまとう。
それでも私は、コーヒーと睨めっこを続ける。
豆を挽き、香りを嗅ぎ、粉の細かさを確かめながら、
「この子はどんな表情を見せてくれるだろう」なんて、そっと思いを巡らせる。
まだ言葉にはなりきれない感覚たち。
けれど、そこには確かに——“美学”と呼べるものの始まりがある気がしている。
抽出の “美学” とは何か?

コーヒーを抽出する時、あなたは何を思うだろう。
私にとって抽出は、ただの作業ではない。
その時々の豆の状態や香りを感じながら、
「この子の良さを引き出すには、どうすればいい?」と探る。
その瞬間、私は ”コーヒーの通訳者” になる。
粉の細かさ、お湯の温度、注ぐ速さ、湯量、注ぐ間隔。
それらのすべてが味に影響を及ぼすからこそ、感覚と理論の間を何度も行き来する。
決して正解のある作業ではない。毎回が “探り” の連続だ。
今日も、愛用している透明なドリッパーに光が差し込み、プリズムのように輝く。
それだけで少し背筋が伸びる。
「今日こそ美しく淹れたい。」
そんなふうに思わせてくれる道具だ。
美しさとは、味や見た目だけではない。
豆の声に耳を傾けようとする姿勢や、余計なものを削ぎ落とす所作、丁寧であろうとする意識。
そのすべてが、”一杯の美学” を形作っていく。
自分にとっての “美しい一杯” の定義
正直に言えば、自分の手で「これは美しい」と思える一杯を淹れられたことはまだない。
いつも必ず、何かしらの粗さや未熟さが顔を出す。
技術も、感性も、まだまだ未完成だと痛感する日々。
でも、あることに気がついた。
私はいつも「美しく淹れたい」と願っている。
その願いこそが、美しさの入口なのかもしれない。
豆の声を聞かず、自分本位に抽出を進めてしまうと、どこかで違和感が残る。
その一杯は、私の思う“美しさ”とはかけ離れてしまう。
反対に、豆とまっすぐ向き合い、集中しきったときの抽出には、静かな心地よさがある。
「美しい一杯」とは、完成された味を指すのではなく、
“美しく淹れたい”という願いを持ち、
目の前の一杯に誠実に向き合う、その姿勢に宿るもの——
そんな気がしている。
そしてその一杯が、いつか誰かの心に、そっと輝きを灯すことがあるのなら。
その過程すべてが、もう「美しい」と呼んでいいのかもしれない。
美しさを磨くための5つの意識
「美しい一杯」を淹れるためには、技術や感性だけでなく
その根底にある“姿勢”や“意識”が何よりも重要だと私は思っている。
それはつまり、どれだけ自分自身と誠実に向き合えているか。
そして、目の前のコーヒーに対して、どれだけの敬意を持って接しているか。
日々、抽出に向かう中で、私が大切にしていることは次の5つ。
丁寧に生きること
所作、言葉、時間の使い方。
すべてに丁寧さが宿るとき、抽出にも自然と心が通う。
細部に目を向けること
粉の状態、抽出の流れ、香りの変化、音や泡の動き。
一瞬の違いがすべてに繋がっていく。
理論と感覚のバランスを探ること
理屈だけでも、感性だけでも、美しい味は作れない。
その両方を行き来しながら、技術を育てる。
“美しく淹れたい” という願いを忘れないこと
どんなに慣れても、初心のあの祈るような感覚を手放さない。
願いが、動作を整え、心を澄ませてくれる。
自分と静かに向き合うこと
今日の自分はどんな状態か。余白はあるか。
そんな内面への問いかけが、一杯の表情を変えてゆく。
この5つの意識が、私にとっての「美しさを磨く習慣」であり、
コーヒーの抽出という行為を通して、自分自身を整える時間でもある。
コーヒーを淹れることは、どこまでもパーソナルで、どこまでも誠実な行いだと思う。
それは技術の研鑽であると同時に、生き方そのものを映す鏡なのかもしれない。
その一杯が、誰かの余白となるように。
誰かの手にわたるその瞬間、私は静かに願う。
「この一杯が、その人の余白となりますように―――」と。
ただ喉を潤す飲み物ではなく、
少しだけ呼吸が深くなるような、
心のどこかに、そっと静けさが灯るような。
そんな ”一杯の余白” を手渡せたらいいな、と思っている。
なぜなら、私自身がそういう時間を必要としてきたから。
コーヒーと向き合う静かなひとときが、
言葉にならない気持ちを、少しずつ整理してくれたから。
だから私にとっての “美しい一杯” とは、
飲む人の中に、優しい余白を残してくれるような一杯。
その余白が、その人にとっての “今日の余裕” になるのなら、
私は今日も、丁寧に、一杯を淹れたいと思う。
誰かの心に、そっと寄り添う。
そんなコーヒーがあれば、きっとそれでいい。
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